2016年1月15日金曜日

阪神・淡路大震災

みなさん、こんにちは。
レオックあけぼの店の事務スタッフ、N.I.です。

もうすぐ『1月17日』がやってきます。



























1995年1月17日 午前5時46分。
後に【阪神・淡路大震災】と名づけられる震災が発生しました。

もう21年も経つんですね。
社会人のような人のなかにも「学校で習った」「テレビで見たことある」という出来事になってきたんですね。
私は自室のベッドで就寝中でしたが、目覚めました。
でも(また、東京のほうで地震かな?)くらいの気持ちでまた眠ってしまいました。
そして、改めて起きてから見たテレビの中の様子は本当に本当に目を疑う惨状でした。
あのときの様子はどう表現したらいいのか分からないほどの衝撃でした。
戦争も知らない私たち。大きな天災も経験がない。
これが今、日本のあるところで起きている事実とは。

それから毎日、あらゆる媒体で知らされる震災の様子は私の中の何かも変えていくようでした。
(あそこに行きたい。何かしたい)という思いに日々駆られるようになりました。
そんな折、縁あってボランティアに誘われました。
いざそうなると一瞬の躊躇がありましたが、でも、ひとりでは動けなかった私にとっては『渡りに船』となるものでした。
誘ってくれたのは通っていた英会話スクール代表のアメリカ人×日本人夫妻、あとはその学校の生徒たち(総勢8名)。
医療関係者とか建築関係者とか、すぐに被災地で有効に動けるような人材ではなかったので、『とにかく進んでやれることをなんでもやる。どうにも足手まといにしかならないようなら潔く豊橋へ帰る』と意思統一をして神戸に向かいました。

職場の理解もあり、お休みを頂いて一週間弱の短い期間ではありましたが、地震発生約3週間後(2月上旬)に現地に入ることができました。
私たちがお世話になったのは、避難所となっていた神戸市立のある学校。
こちらを経つ前に、私達を誘ってくれた先生が先方と連絡を取ってくれていました。
まだ電車等が不通の状態だったので、可能なところまでは電車、最終的には代替バスと徒歩で学校に向かいました。
大きな学校で、震災発生当初の避難者は1,200名ほどだったらしいのですが、このときには1,000名弱とのことでした。
短い間ではありましたが、本当にいろんなことがあり、さまざまな思いを重ねていきました。

長期で滞在できなかったため、気づいたこと、頼まれたことをとにかくやりました。
グループで参加しましたが、一緒に行動することもあれば、単独で動くことも・・・・・・。

●食料配給
援助物資はかなり届いていた。
避難者が多かったので、公平かつ迅速に配ることが難しかった。
不満にならないよう、今日は1階の方から、明日は2階の方からというように順番に配給。
ただ、大きな避難所だったので、せっかくの物資が均等に配れないものは後回し→廃棄となるケースもあり、本当に残念だった。夏場ならもっと問題も起きていたと思う。

●援助物資の仕分け
食料と同じく、多くのものが届いていた。
学校だったので、多くは体育館に運ばれてボランティアの手で仕分け。
衣類などは通販会社や企業からの物資が新品で潤沢にあり、私達ですら(ありがたい)と思った。
複雑な思いになったのは一般からの物資。
「仕分け」と言っても、ほとんど廃棄処分に。
(え? 廃品回収?)と思うようなものが少なくなかった。
毛玉だらけのセーター、腕まくりしたままの綿シャツ、伝線したタイツ。
怒りすら沸いてきた。
もちろん、そんなものばかりでなく、クリーニング店の包装で届いていたものや、一見して新品と分かるものもあったが、心身ともに疲れ果てた見ず知らずの方に、酷い物資を見ると、どういうつもりかと思った。
日用品などもやはり企業からのものは仕分けしやすく、配給しやすいものばかりだった。
個人的な(少しでもお役に立てたら)という思いも、ここまで大規模の被災となると、物品の場合は報われるのも難しいと痛感した。

●マッサージ
神戸市内で自身も被災した鍼灸師の男性が避難所を回って活動していた。
ちょうどこのときはこの学校に滞在。「皆さんは疲れきっている。お風呂にもなかなか入れないし、プライベートもない。この寒い時期に、避難所で不自由で不安な生活を送っているから、リラックスさせたい」とのこと。空いた時間に彼から数人が簡単なマッサージを教わり、お年寄りを中心に話し相手も兼ねながら回ることに。
「チカラは入れない。ツボが分からなければ、さするだけでいい」と。
当時、自分の母を毎晩30分ほどマッサージしていたが、さすがに緊張した。
細心の注意を払いながら手を動かし、話したそうな方には耳を傾け、話したくなさそうな方には敢えて言葉を向けずにいた。
滞在中の活動で、このマッサージが体力的に一番堪えた。
それでも、ほとんどの方が最後に眠ってしまうということに救われた。

●足湯
あるボランティアの女の子が、「お風呂になかなか入れないなら、せめて足湯でも」と提案。
上記の鍼灸師さんにも相談に乗ってもらい、足の裏をマッサージしながら洗面器のお湯に足を漬けてもらう、という足湯もおこなった。
その学校には大きめの浴室があり、ここでも高齢者を優先に利用してもらった。
足先は冷たく、かたく、カチカチになっている方が多かった。
お湯でふやけてくるとあっという間に洗面器には垢の膜。
でも、汚いと思わなかった。
垢を落としてあげられる、足をほぐしてあげられる、・・・そんな思いが強かった。


できたことといえば、こんなことくらいでした。
本当に短い間。
滞在しているあいだは無我夢中だった。
でも、なんだか『こまぎれ』のような活動で、単なる自己満足ではなかったかとの思いが日増しに強くなっていきました。
結局たいしたことはできなかったじゃないか、と。


私たちは校舎の廊下で寝袋を使って寝ました。
大きな避難所で、ボランティアも数十人はいるだろうと思われ、見ず知らずの人たちの集まりなのに、一瞬にして連帯感のようなものが芽生えていました。
極寒の2月(滞在中には雪も降りました)、学校の廊下。
でも、寒くなかった。避難所としては恵まれていたのかも。
でも、避難者の方は寒かったかも。置かれた状況で違ったのかもしれません。
ボランティアは手弁当が原則なので、滞在中の食料・飲料は持参しました。
でも、救援物資が余っている場合はある程度のお金を出してそれを頂き、出したお金はそこでのボランティア活動に充てられていました。
そこの活動は奈良に本部を置くボランティア団体が指揮をとっていました(リーダーは弱冠23歳の男性でした)。
トイレも断水のために使えませんでした。
小便は流さず、使ったペーパーはゴミ袋へ。
大便の場合だけ、大きな容器に貯めた水で流すという方法。
トイレは排泄物と消毒薬の臭いで充満していました。
でもやはり、冬で良かったのかなとも。


短いあいだでも避難者の方とも、ボランティアの方とも交流が持てました。
マッサージをしている私を励ましてくださる避難者の方がいたり、家は壊れていないのに「何か手伝いたい」と毎日通ってきていた地元の女子高生がいたり。
川崎からひとりで「3日だけだけど」と来ていた看護師さん。
車1台に乗り合わせて十時間以上かけて来ていた九州大学の学生さんたち。

この年は『ボランティア元年』とも言われるようになりましたよね。

でも。。。
私はこのときの経験は本当に貴重だったと実感していますが、5年前の東日本大震災のときにはもうボランティアに行く気持ちがわいてきませんでした。
状況が許さないということもありましたが、やっぱりあのときの無力感は強かった。
小さな力でも合わせれば大きくなることは間違いないと思うのですが。。。



今日のブログを書くにあたり、当時、神戸から戻って書き残しておいた記録を読み返しました。
神戸にはあれ以来、まだ訪れていません。
避難所とその近辺の様子しか見ていませんが、変わったんだろうなあ。

↑この写真は、最終日に豊橋へ戻るべく、避難所のあった灘区から東灘区まで歩きながら撮ったものです(プリント写真の接写)。

※冒頭の写真は避難所に置かれていた情報紙の数々です。
自分にとっての情報収集と、被災者の方に伝えることが何かあればと手に取りました。


あのときの震災が『百年に一度あるかないか』と言われました。
でも、16年後に早くも東日本大震災が起こりました。
今年の3月でまる5年ですね。
津波の影響が甚大な震災でした。
1月から3月にかけては、日本では特に地震について考える時期になりましたね。



レオックでも耐震診断を行っています。
もちろん、耐震工事も。。。
ご相談だけでも専門のスタッフが伺いますので、お気軽にご連絡くださいませ。

備えあれば。。。 ですものね。

*** 長文・乱文となり、失礼しました ***

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